好事魔多しの「魔」

好事魔多しという言葉がある。
多分いい事が続いてそれを阿呆みたいに享受していると、ドツボにはまるんだぞ、という意味であろう。
でも大体人間いい事というのは認識しづらいもので、好事を認識することは余り無くても、「魔」を認識することは多いのではないか。
おれもそう、
これはおれの持論だが、「魔」は一日一回何かのかたちでやってくるということだ、
どんなかたちかは分からない。上司の腹の虫が悪くておれが標的になったり、仕事中何かにぶつけたり、ありえない怪我したり、酷いと事故ったり…
また、「魔」は人間の一日を押しなべて平らにするためにやってくるとも思っている。
嫌なこと続きの日には、「魔」は控えめ、
何も無い平凡な日には、それをひっくり返すために「魔」は仕掛けを仕掛けてくる、とか。
プラマイ零に限りなく近くなるように、「魔」は存在しているのではないだろうか。
でも先程も書いたとおり、人はいい事というものを認識しづらい生き物だから、好事を好事と思ってないのかもしれない。だから「魔」がやってきたとき、人は「今日は最悪だ、ツイてない」と思ってしまうのかもしれない。